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ザ・アクション・スーツの歴史 

 

1995年、数々の伝説的逸話を生み出した年にこの物語も始まる. . .
事の始めはアルだった。曲を作ったのだ。しかも良い曲ばかり。彼はそれをエリックとアンディーに教えた。そして3人はグリーン・ハウスの地下室でそれらに命を吹き込んだのだ。ジェレミーはよくその練習の場に現れたが、演奏に参加しようとはしなかった。彼等のインスピレーションは、サリー・モー、ミス・サーシャー・ヴィーダ、そしてビートルズ。彼等は自分達の音を模索し、地下室にこもり、何時間も練習を続けた。バンド名は何度か変更した後に、「ザ・アクション・スーツ」に落ち着いた.
その年の秋に、彼等はコミック作家ジム・ウードリングと彼の妻、メアリーに自宅で開催するハロウィーン・パーティで演奏してくれないか、と頼まれた。目標が出来た彼等は練習に熱を込め、自信満々で当日に臨んだ。ゲストは:デビル・サンタ、スケルトン、ベイビー・ニュー・イヤー、カービー・コミックスの連中、そしてブランチャード等、そうそうたるメンツだ。実に手強い観客達だった。バッチリ衣装を身につけ、顔にはアクリル・ペンキを塗ったメンバーが登場し、演奏が始まる. . . そして観客を興奮の渦に巻き込んだのだ!彼等はロック・スターの夢もそう遠くはない、と確信した。その夜が終わる頃には、ピーターがドラマーとして参加する事が決定し、ラリーがバンドのマネージャーとして名乗り出、シアトルのラヴァ・ラウンジでの初めてのギグの仕事が舞い込んだ。
この時点でアルはシアトルでアクション・スーツとして生きるのは自分の道ではないと考え、オレゴンのポートランドへと引っ越して行った。
アルが抜けて初めてのギグが近づくと、ローカル紙シアトル・タイムズが、それを「今週の注目のライヴ」として紹介してくれた。しかもヤニとレバ・マッケンタイヤーの記事の横に。ギグ当日、会場は満員だった。そこには当時のシアトルのロック・シーンを代表する人々がいた。メンバーは突然自分たちの機材があまりにも乏しいのであせりはじめた。ギターとベースは同じアンプで音を出していたし、ドラム・スツールはバケツにクッションを載せただけ。しかし、それでも彼等の演奏は最高だった。観客は大喝采、皆が楽しんでいた。キング・オブ・プッシー(なよなよ)・ロック、アクション・スーツの噂は瞬く間に広がった。
その日からの数ヶ月間、彼等のスケジュール帳はどんどん埋まって行った。C.O.C.A.コミック博覧会でデイム・ダーシーと競演、ミラー・ビールのウェブサイト上でのインタビュー、そしてデモのレコーディング。シングルやEPを出してくれるレーベルを探していたのだ。そこにメジャー・レーベルの雇われ人(?)であり、彼等の良き友人でもあったスティーブ・フィスクが現れ、手伝いを申し出た。レーベルと交渉した結果、4つのレーベルがそれぞれ7インチを出す事が決定した。1996年の3月、メンバーは初めて本物のレコーディング・スタジオに入る。ストゥがマイクと機材を設置し、スティーブがエンジニアリングを担当、そしてジョーが仕上げた。そのセッションでは7曲が完成。噂によると、サブポップ・レーベルの片割れ、ジョンが「ビジュアライズ・バラード」という曲の途中で突然DATをプレイヤーが取り出し、それを壁に投げつけたとか。4つのレーベルのうちの一つにサブ・ポップが含まれなかった事は言うまでもない。
レコ発ライブはふたたびラヴァ・ラウンジで行われた。そして再び会場は満杯だった。今回は機材もしっかりと揃えた。ベースとギターには別々のアンプを用意し、ピーターはドラム・スツールを買い、そしてなぜかそこには4人目のメンバーとしてキーボードを演奏する事を説得されたスティーブも居た。同時期に発売された雑誌フィズには彼等のインタビューが掲載され、メンバーそれを持ってギターの名手デミアンを口説き、派手なフレーズを提供してもらった。その夏、彼等は初めてシアトル以外の場所で演奏する。サンディエゴ・コミコンの会場だ。
しかし1996年の秋には活動も練習回数も減り、ピーターがバンドを脱退。クリスマスにはリリースしたシングルは全て売り切れ、シアトルは米国北西部特有の暗い冬に包まれた。
しかしたとえ冬でもぼやぼやしてられない。デミアン、アンディー、そしてエリックは活動を続けるためにドラマーとしてクリスに声をかけた。バンド名を変更しようかどうか考えたが、そのままで行くことにした。その頃にはかなりの認知度があったからだ。オレゴン州ポートランドのNXNW・ミュージック・コンファランスで演奏する事になり、メンバーはファンタ・ヴァンに乗り1-5経由で出向いた。帰路のヴァンにはなぜか、ライブ会場のロゴ入りの1パイント・グラスが積まれていた。春には練習に熱を入れたが、ライブは少なかった。1997年の6月にレアのスポット・オン・レーベルからシングルをリリース。アートワークはアルが担当した。
その夏の終わりに、バンド、モデル・ロケットのジョンがアクション・スーツの練習場であるバラード・エステートに引っ越してきた。そこで新たな友情がはぐぐまれ、共にライブをしたり、曲作りをしたりした(発表される事はなかったが)。しかし1998年の秋にバラード・エステートが火事で燃えてしまった。そこで初めて、アクション・スーツのメンバーは別々に住む事になったのだ。これが活動休止のきっけとなった。なぜなら、練習場がなくなってしまったからだ。それからというもの、練習するには遠く離れた南シアトルの倉庫まで機材を運ばなければいけなかった。練習の回数は徐々に減り、アンディーが大学に行くためカリフォルニア州のオレンジ・カウンティに引っ越し、ついに活動休止となった。その時点でアクション・スーツがふたたび共に演奏する事になろうとは誰も思わなかった。メンバーは皆、それぞれの人生へと歩を進めた。アクション・スーツの活動は終わったかに見えた. . .
6年後. . . 2006年の春。
なんでこうなったのか解らないけど、メンバーが再び集まってる。ここはスティーブの自宅スタジオのコントロール・ルーム。ピーター、エリックとアンディーはここ数日間スティーブが作業したものを熱心に聴いている。一週間前に彼等はスタジオに入り、新曲を数曲録音したのだ。過去の作品と合わせて日本のプレスポップ・ミュージックがCDとしてリリースする事になったのだ。ファン・マシーンの下で犬のサラが眠り、僕は部屋の隅に座り聞き耳を立て、メモを取っている. . . そう、ザ・アクション・スーツ物語の第二章が始まったのだ。
フリッツ・ズウィッキー
シアトル、ワシントン州(2006年)

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